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MASAHIDESAKUMA佐久間正英1952年3月1日生まれ東京都出身BASS,CMI&SYNTHESIZERS,GUITARS,VOCALS.“ミスタッチ”という、日本のELPと呼ばれたプログレバンドに在籍。そのメンバーであった茂木由多加が75年に四人囃子に参加し、その茂木の誘いで、佐久間も四人囃子に加わる。その後、当時中心的存在だったギターの森園勝敏が抜けたことにより、代わって作曲の中心的な位置を占める。79年に発売した『NEO-N』では、シンセを多用したサウンドで、かなり佐久間の色の強いものとなる。また、当時セッション的に参加していたプラスティックスに本格的に関わり、79年末にレコード・デビュー。よって、『NEO-N』が前期四人囃子の最後のアルバムになる。プラスティックスでは、海外でのレコード・リリースやワールド・ツアーを経験するといった成功を収める。その後は、ボウイ、ストリート・スライダース、ブルーハーツといったバンドを手がけ、日本のロック・シーンを代表するプロデューサーとして活躍中。「“ミスタッチ”は、やっぱりELPの影響を受けて、3人バンドがいいなということで、始まって(笑い)。四人囃子とは、割と傾向も近いからそのころ対バンとかしてたんだよね。うん、かっこいいなとか思ってましたよ。ファンでした。それで“ミスタッチ”が解散して、茂木が四人囃子に誘われて、その後、バヤシのべ一スやってた中村真一が家業を継ぐために抜けたんで、僕が茂木の紹介で誘われたんですよ。でもね、始めはずっと正式メンバーじゃないと思ってた。ピンチヒッターに近い感じで、僕は思ってたのね。でも、森園が抜けてこれはヤバイことになったなと思って。その時からかな、自分はメンバーなんだという自覚を持ったのは。それまで、森園がほとんど曲を書いていたから、その時初めて四人囃子用に曲を書いて、結局『プリンテッド・ジュリー』では、僕の曲が一番多くなってしまった。その時の心境?僕は四人囃子のファンだったから、四人囃子を大切にしたい、四人囃子への期待を裏切りたくないと思いましたよ。『NEO-N』を作っているときは、四人囃子で出来ることを極めたかったというのはありますね。これは四人囃子じゃないと出来ないけど、こっちは四人囃子では出来ない。そういうのが見えてきたということかな。だから、その頃、遊び的に始めたプラスティックスでは、四人囃子と対極のことやろうと思っていた。当時、どっちのほうがやりたかったか?そりゃあ、もう、プラスティックス!(笑)。だって、四人囃子は岡井のものですから(*横にいた岡井大二、笑う)。うまいと言われることや、何か重く見られることに、ちょっといやになってきて、演奏以外に聞かせたい、見せたいものが出てきたということかな。プラスティックスをやり始めたころから、プロデュースやアレンジの仕事が多くなってきて、その頃にやったのが、P-MODELのファースト。とにかく、テクノというか、ああいう質感にこだわりたかった。プラスティックス解散した後は、やっぱりボウイのプロデュースが大きかった。でも、その後、日本のロックって、特殊な発展をしてると思うのね。僕らは、四人囃子もプラスティックスにしても、サウンドのことばかり考えていて、はっきり言って歌詞は後まわしだったから。四人囃子なんか、詞が先に出来てることなんか一度もない。それが、今の日本のロックって、歌詞が歌謡曲みたいなもんでしょう。でも、みんなそれが聞きたかったのかなと思うと、ちょっと拍子抜けみたいな。それと、うまいバンドがいなくなっちゃたよね。だから、自分たちの年代が聴けるロックを作りたいというのがすごくあって、そんな時に久しぶりに岡井から電話があったのね。それで、何か一緒にやろうということになったんだけど、それが四人囃子という名前でやることは初め反対だった。去年のプラスティックスの再結成ライブも僕は一人反対していた人だから。結果として、やってみてよかったけど、四人囃子が同じようなかたちで再結成するのはやりたくなかった。それで、やるのなら、レトロなものにしたくないから、プロデュースしたいと言ったのね。そして、今自分がロックをやる形として、四人囃子というのを考えた。新作は変わっているようで、あんまり変わっていない?そうかもしれない。やっぱり四人囃子の曲ということを考えて書いた曲が多いから。(歌詞が難解な「I'm in Action」とその対極のワイルドな歌詞の「Good Good」を同じ人物が書いてるとは思えないという質問に)そうなんだよね、よく言われる(笑)。でも、そういったアンビバレントなのが四人囃子だとも思う。それと、思いきったことがやれる、思いきったことをやるバンドだと思う。たしかに聴き流せる音楽じゃないし、踊れる音楽でもないし、またそうしたくもなかった。でも、それは伝統でしょう(笑)」