「音以外の存在を許さない緊張感の歴史」
武田徹・ノンフィクション作家
東京のアッパーエリアで生まれ、そこで70年代の「青春」を過ごした僕にとって、四人囃子はどこか身近な感じのするバンドだった。
僕自身は四人囃子の初代メンバーより3、4歳若い勘定となるが、当時の杉並、中野区辺りの都立高校では、音楽部の先輩に四人囃子がいたとかメンバーが近所に住んでいたとかいう話があちこちに転がっていたものだ。ちょうど彼らが演奏を担当していた『二十歳の原点』のサントラ盤が発売になった頃だったと記憶する。
「デビュー前からピンク・フロイドの大曲『エコーズ』をフルコピーで演奏していた」とか、四人囃子はその卓越したテクニックに関する幾つもの「伝説」を厚く身にまとっていたが、僕らにとってそうした伝説は案外と納得できる内容だった。
なにしろ、その頃は音楽しか面白くなかったのだ。高度成長期の恩恵をフルに受けて育った当時の、特に東京山の手辺りの高校生にとって、学生運動は既に終った風俗だった。上下関係のうっとおしい体育会系サークルも魅力薄だった。仲間の多くがイデオロギーやスポーツや高踏な議論にうつつ(!)を抜かさず、毎日、洋楽ロックのレコードに合わせてギターなんぞ弾いていたものだった。
だから、そうした状況の中から、四人囃子が一頭地抜きんでて行ったのは一種の必然の結果のように思えた。退屈な風潮の中に音楽の魅力を見つけ出そうとしていた僕らの世代を、彼らこそが代表してくれているようで嬉しかった。
74年、やがて四人囃子は『一触即発』で、本格的なデビューを飾る。ジャケットまでトータルにデザインされた完成度の高さを、僕らは、勝手に自分達の誇りと思っていた。僕にとって四人囃子は、そういうバンドだったのだ。
四人囃子は、ただ音楽のためだけに奉仕する音楽を、ピュアに作り続けたバンドだったと思う。ステージでは常にパフォーマンス的要素を持ち込み、78年の『包』コンサートでは日比谷野音をアルミ箔で「梱包」しても見せたが、そうした実験もまた全てが音楽のため、音楽的な世界の成立ちを演出する方法たりえていた。
少々意地の悪い言い方だが、四人囃子以前のバンドは、反抗的スタンス、或はカウンターカルチャー指向を決め込むためのファッションとしてロックを選んだとしか思えなかった。四人囃子以後のバンドにはビジネス面でのサクセスストーリーを狙う色気が透けて見えるようになっていった。その狭間に活動した四人囃子だけが、奇跡のように音楽だけに殉じ続けていたように思う。
そして、それが、たとえば彼らがバンドサウンドを強靱に一貫させえた理由にもなったのだろう。第一期(と、書けるのが嬉しいじゃん!−−)四人囃子の前期は森園勝敏が、後期は佐久間正英がイニシアティブをとり、それぞれの時期に最もラディカルな音楽的試みを実践して聴かせてくれたが、バンドとしての個性は制作年度の相違を越え、明らかに一本スジが通っている。
バンド史を貫く縦糸となる個性とは何か。そう間われると、言葉で形容するのはなかなか難しい。たとえば全体の音場の中で必然に求められる音以外の存在を許さないタイトな緊張感の持続、あるいはモダニズム建築物を音で紡佛させる均整感覚とでも言うのだろうか。古典主義音楽のエスプリにさえ通じそうな、そういった要素が一貫して収められているから、『一触即発』のギター中心の構成でも、第一期最後のアルバムとなった『NEO-N』のシークエンサーミュージックにも、同じ四人囃子オリジナルサウンドが響いて聴こえるのだ。
そんなバンドは日本にかつてなかった。そして、四人囃子が活動を休止してしまった80年代にもその後継は現れなかった。
生まれと育った場所こそ近かったが、僕が四人囃子を経由したメンバーと実際に会えたのは随分と後になってからだった。1989年3月。市ヶ谷のスタジオに、僕はある雑誌の仕事で佐久間正英を尋ねている。
そして最初の遭遇が、とんでもない経験となった。僕は思わず目を疑っていた。スタジオに岡井大二と坂下秀実がいるではないか。後に『Dance』に実を結ぷレコーディング現場を、僕は遇然、目撃する幸運に恵まれていたのだ。
佐久間は語っている。「僕個人の力以上のものを引き出してくれるメンバーともう一度、一緒に演奏したくなった」。
フェアライトを縦横に使いこなす佐久間は、完全なデモテープを一人で作ることが出来る。プロデューサー/アレンジャーとしての彼は、そのデモテープをアーティストに渡し、演奏させ。音盤を制作するのだが、少なくとも演奏力において完成品がデモテープを越えるケースは少なかった。
このままでは他人と一緒に音楽を作ることのスリルと喜びを見失なってしまう−−。スーパーテクニシャンならではの不安と欲求不満が、彼をさいなんでいたという。そして、ある機会に、旧友岡井にその語をしてみる。岡井もやはり同じ不満を感じていた。ならば、もはや結論は出たも同じだった。四人囃子を復活させよう、と。
7月に『Dance』は発売された。相変わらずセンスの良いジャケット。クリアな音空間感覚。音楽のために個人の技量を昇華させるバンドサウンド−−。そして10年ぶりに世に送り出されたこの四人囃子の新譜は、彼らの第二期活動のスタートラインとなった。次いで9月22/23日にはMZA有明でのライブ。
「懐かしいというだけで、再結成するのは厭だった」。
岡井はそう言っていた。そして『Dance』の歌詞の中には「僕の「永遠」と踊ろう。記憶の運命を打ち砕くように」という一節がある。岡井のコメントと照らし合わせてみると、この一節が現在の四人囃子から呈示されたマニュフエストなのが分かる。打ち砕く「記憶」とは伝説のスーパーバンド四人囃子が、ついに70年代を越えられなかったという記憶。たとすれば「永遠」とは−−。
四人囃子は、もう一度、新旧では語れない「普遍」な音楽のために奉仕しようとしているのだ。その意気軒昂ぶりを誇らしく、嬉しく思う気持ちを、僕は再び禁じ得ずにいる。 |