吉浜 弘之 インタビュー : 四人囃子ジェネレーション

吉浜弘之氏 高校時代から森園・岡井と親交があり
ロック・フォトグラファーとして四人囃子とともに時代を生き抜いてきた男

インタビューは、1997年5月21日の昼下がり
たおやかに流れる川の畔のレストランで、2時間にも渡って行わせていただきました。

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Looking Back on Our Generation - 同時代の人々へ伝えたいこと -
 
 1960年代後半から1970年代について

.....うーん、今よりも生き生きしていたし、自由だったような気がするなあ。今は規制とか規則とかが多いけど、あの当時はみんな個性的だったね。アーティスト志向も強かった。特に中央線の高円寺とか下北沢とかではね。

 あの時代、ロックから色々なものが始まっていったんじゃないかな。アート的なもの、文化的なものがね。

 
今ね、時間があったら聴くのはラジオですね。

FEN!いいですよ!

昼間の1時から3時迄、あと夜中11時以降。 凄いんですよ、クラシック・ロックの。 毎日の様に聴いてますね。

'70年代、'80年代にロックが好きだった人は
聴いて欲しいですね。

 東京エリアだけですけど。ラジオ、良いですよ。新譜とか、そういう情報みたいなのは昔、僕等の頃はラジオから得られたでしょ。

 アメリカでは、どこの町に行っても必ず“クラシック・ロック・ラジオ・ステーション“があるけど、日本だとホント少ない。

 昔は色々な事を聴ける状況だったでしょ、今みたいに流行モノしかかからないラジオ局じゃなくて。 ラジオで聞いてレコードを買ったものですけどね。色んなジャンルかければ良いんだけどね。

 今、ロック番組ってのは二つしかないんですよ。みんな伊藤政則さん、彼がやっている番組。 東京エリアでは金曜25時からFM-FUJI(78.6)ロックダム 、土曜25時からBAYFM(78.0)パワーロックトゥデイ。AMとFMをあわせて、今ロック番組は東京エリアではこれだけだと思います。昔はAM局でもロック番組があったんですけどね。なるべく聴く様にしてますよ。政則さん自分で選曲してるみたいです。いまどきこんなDJいないと思います。

 その番組なんか年齢層高いですよ。40代の人からも来るし、30代も来るし。 だから、そういったハードロックファンて いるんですよ、潜在的に。地方からわざわざ有線を引いて聴いている人もいるみたいだし。

 同世代の人って、今やロックを語れる仲間が少なくなってしまっているみたいだね。たまに感性の合う人に合うと、もう喜んで話し込んでしまう。

 
これまでの軌跡
 
幼少期

 小さいときから写真が好きだったというか、父親がやはり写真好きで、家に簡易暗室があったんだ。

 小さい頃、僕はピアノをやってて。この世代にありがちな、親から言われてってやつ。イヤイヤやってたから、5歳から7歳位迄ですかね。 やっぱりイヤイヤやってちゃだめですよ、何でも。

 でも、その影響からか、ロックもキーボード嗜好?だったかも知れないですね。ギターもいいけどキーボ―ドも大好き。ディープパープルにしても、リッチー(・ブラックモア)よりもジョン・ロードの方が好きだった。ハモンド(・オルガン)は大好きですね。

 シンセサイザー?うん、EL&P観に行きましたよ、後楽園球場。

 オルガンが好きなんですよ。 ナイアシンてのも良いですよね。

 
中学時代

 音楽にのめり込んだのは高校の頃、16ぐらいで、その前はGS(グループ・サウンズ)でしたね。中学の時は。5〜6歳位迄いとこと一緒に住んでたんですよ。 いとこは僕より上ですから、『ザ・ヒットパレード』とか、一緒になって みてて。そこら辺の音がイヤでも入ってきたというか。

 でも、基本的には中学の時はGS世代ですから。それからギターを始めた、というかガットギターをね。

 ギターを欲しいなと思い出したのがこの頃じゃないかな。それでフォークとか聴きだして。

 
高校時代

 高校入ったら友達がロック聴いてたけど、自分の音楽的志向はフォーク。PPM、ブラザース・フォー、CSNとかが好きでね。

 日本のフォークではかぐや姫の最初の頃とか、岡林とか、高田渡さんとか。

 写真部には入らなかった。 高校2年の時に軽音楽部ってのを作ったんですよ。

 軽音て言うか、フォークの。 そういうの無かったから。同好会だから、部費を募ってってわけじゃなくて、顧問もなくて。岡井はいなかったんじゃないかな。 ロック系の人も居ましたね、なんとなくギター持って集まったというか。部内でバンドとか組んで、かぐや姫的な。発表の場は文化祭。

 高校の制服をなくす運動をしたんけど、最初は2人くらいから始めたんだ。 当時は 社会全体が そういう感じで、他校との交流みたいなのは別になかったですけど、やっぱり耳に入ってくるから。

 時代的に1969年だったでしょ、安田講堂の後ですよね。新宿地下広場とか...。 一緒にフォークやってた人がそうだったけど、僕は本格的には入らなかったですね。

 要するに、そういうよりは学校内を変えた方がいいっていうか。 生徒会みたいなのに首を突っ込んでて、先輩だったリーダー、生徒会の上の人が また凄い人で、先生にいわせると、10年に一人いるかいないかっていう くらいの、 いわゆる闘士の生徒。そういう人達との付き合いもあって、それで結構盛り上がって。

 要するにこの頃ってのは高校もそういう時代だったんですよ。 学生運動華やかしき頃の世代ですか。僕等より上になるともう本当に。 あの神田周辺は戦場でしたからね。同世代の人達がたむろしてましたからね。その同世代の人達がその頃は路上で石を投げてた。新宿の西口のフォークゲリラ とか。

 僕は行かなかったんですけど。うちが大泉だったんで、新宿ってのが エラク遠く感じてたんですよ。今でこそ行動範囲が広いけど、高校生の時は そんなにね。まぁ、そんなフォークゲリラが盛り上がっていた頃です。 そこら辺、ホントにいっぱいいましたからね。いわゆる反戦歌とかプロテスト・ソング、社会を風刺した歌とか、そういう時代だったんでしょうね。ベトナムでは戦争やってるし。

 今、政治家ってのはラクだなって。あの頃こんな政治やってたら大変でしたよ。例えば、キヨシローさんがカバーズで原発を唄ったりとか、あんなのはいっぱいいましたからね。あれで問題になるなんてのは なかったですよ。今でもやってるバンドはあるし、ひとつのアルバムの中ではそれくらいはやってるんだけど、言ったってついてこない。

 今はラヴソングじゃないと売れないから、なんかロックじゃない。ロックって、人に訴えるものでしょ?

 鷺宮高校は多くのミュージシャンやアーテ ィストが出てるから、別名:都立ホリコシなんていわれててね。例えば、同級生に"中沢厚子" がいた。彼女は吉田拓郎のファースト・アルバムで"男の子女の子" を一緒に歌った人なんだ。後にソロ歌手になったけど、現在はシャ乱Q の事務所の社長夫人になっているみたいだね。あと、1年下にメトロファルスのキーボードのライオンメリーがいるね。


  岡井とはねえ、同じ学校だったから仲良くなって。同じクラスになったことはなかったけど、クラスってあんまり関係なかったな。9クラスもあったんだけど、学年がひとつのかたまりって感じで。

 実は、岡井のバンドでボーカルをやって、ステージに立ったことがあるんだよ。

 鷺宮高校の文化祭は、学内の催しとは別に、学内者のものだけを対象に、杉並公会堂で文化人を呼んで講演会を開いたり、演劇部が演劇したりバンドがライブしたりするんだ。1年の時には僕もブラザース・フォーのコピーで出ましたけど、2年の時にはスタッフ。 岡井は”サンニン”とは別に、学内だけのバンドで練習しててね、ギター、ベース、ドラム、キーボードという編成でフルーツガム・カンパニーの“トレイン”という曲を練習してた。

 そして杉並公会堂のステージにのぞんだんだけど、なぜかボーカルがいない。何でボーカルがいないんだろうなー?っと思ってたんだけど、 なぜいないのか、そこら辺の経緯はよく覚えていないんだけど。

 で、ボーカルをやってくれないかって。僕は文化祭の実行委員ですよ、スタッフですよ。俺としてはえっ!なにを!ボーカル?!ナント!!という感じだったけど、杉並公会堂の隣に新星堂があって、そこへ行ってレコードの試聴をしながら歌詞を覚えて。こういう唄い方、とか。1回聴いただけで唄える訳ないって。ステージでも歌詞なんて見ながら演って。

 あれは一番恥ずかしいステージだったと大二は言ってましたっけ.....

 
大学浪人時代

 浪人にもかかわらず、音楽に首を突っ込んだままだったね。

 四人囃子が他のバンド と共に出演した中野公会堂では、別のフォーク・ グループのPAを担当してた。それで特に規制がなかったんで、写真が自由に撮れたんだ(本オフィシャル・ページのフォト・アーカイブ・コーナーに掲載してある写真)。

 中野公会堂のあの時代に“専属のPA”がいたのは、四人囃子だけだったね。珍しかったんだよ。

 四人囃子は、デビュー前はオリジナルよりカバーが多かったですよ。 ジャンジャンとかで演ってた頃は。オリジナルで最初に聴いたのは『おまつり』だったかな。

 
写真学校時代(2年間)

 写真学校は、何かを教えてくれるところではなく、方向を見つけるところだね。結局は体で覚えなければ。

 当時はねえ、高円寺辺りの喫茶店、いわゆるロック喫茶やクラシック喫茶にたむろしてて.....高円寺に住んでる親しい友達が出来てね、そこに、まあ入り浸ってたんだけど。
  その高円寺に住んでる写真学校の友達が森園とも知り合いでだったんで、また森園と会う ようになったんだ。高校卒業以来の再会はその頃だったな。高校時代は特別交遊って感じでもなかったんだけどね。 ああいるな、って感じで。まぁ、彼の家が写真屋で、僕も家に簡易暗室があったりしたから写真に興味あったし、その辺で話があったところもあるね

 
写真スタジオ時代

 麻布スタジオ に入社して、1年間、いわゆるコマーシャル・フォトの仕事。いわゆるセット撮影のアシスタントをやっていたわけなんだけど、むちゃくちゃ忙しかった。1週間に仕事が100時間とかですから。外にでられる時間が全くなかった。外との交遊とかできなくて。

 まだ若かったし、遊びもしたいし、とにかく時間が欲しかった。というわけでスタジオを退社しちゃったんだ。 やっぱり人を撮りたかったしね。その頃は立木さんとか、篠山さんとか有名なファッションカメラマンに憧れてスタジオに入って、そういった人達の写真を撮るスタイルを見てたけども、好きなのはロックだし、ロックを撮りたいなって。

 今はコマーシャルフォトをやっとけば良かったかな?って。ロックは趣味でやって行きたいっていうか、仕事にするもんじゃないっていうか。物を撮ってる方が長く写真撮れるでしょ、年とっても。物を撮るのも面白いですからね。この頃はイヤだったけど。数年前から思うようになったけど、物を撮るのも面白いですよ。物を撮るのって時間かかるんですよ、地味で。

 スタジオ時代は若かったから、遊びざかりじゃないですか。まだ22才って。

 
フリーのアシスタント時代から現在まで

 森園が"迫水 正一"さんと知り合いになって。で、モリから迫水さんを紹介されて。森園が山内テツのグット・タイムズ・ロール・バンドに入った頃に、丁度迫水さんが写真を撮ってて、知り合って。

 迫水さんと"井出 情児" さん、彼等からプロとしての心構え、つまりロック・ カメラマンとは?写真とは?といったことを教えてもらったんだ。だから今、この仕事をやっているのも森園のおかげみたいなところがあるよね。

 迫水さんは一昨年亡くなりましたよ。48才だったかな。晩年は富士山とか、自然の写真、和太鼓、鼓童なんかを撮ってましたね。迫水さんがやってた山とか風景、僕ももうちょっと年とったらやりたいかな、と思いますよ。

  情児さんに紹介されて、"ヤング・ギター"の仕事をするようになって。先駆者ではジャズカメラマンが多かったですね。ロックはいなかった。ジャズ好きな人はロックそんなに好きじゃないじゃないですか。

 それで、マイケル・シェンカーとかがヤングギターの嗜好になって来た時に、ロック好きのカメラマン(注:吉浜さん)がいて、それに上手くはまっちゃったかなぁって。 (ヤング・ギターの担当編集者が、後に吉浜さんの奥様となった。 奥様はその後、 1986年に雑誌"B-PASS"の初代編集長をお勤めになった。)

 プロ第1弾の仕事は、確か子供ばんどやCHARが出演した"日比谷野音" でのコンサート。

 カラー・グラビアといった大きな仕事の最初は、マイケル・シェンカー。この時 に他のカメラマンが撮っていない様な、" ロック写真としてのインパクトのある 写真"が撮れたなぁと思ったんだけど、結局これが他人にも認められることになったかな。

 その後長期にわたって手がけたのは、"ラウドネス"。ラウドネスとの関係は深くて、高崎晃のソロアルバム2枚のジャケットも手がけた。

 ラウドネスがアメリカでやって、帰って来てこちらで向こうのライティング取り入れたんですよ。それからかな、日本でもそういうライティングやるようになって。

 1980年以降じゃないかな、仕事だし、ライブをずっと観るようになったのは。そんな感じで1983年からすごく忙しくなった。当時ヤング・ギターは"ハードロック化"の道を進んでいたし、まさにそれと歩調を合わせて仕事をしてきた感があるね。

 被写体として面白いバンドは、やっぱり“動きのある”バンドだね。日本にも“面白い”バンドが沢山いるけど、特に面白かったのはRC(・サクセション)とかね。

 写真撮ってると、このバンドは勢いがあるなってのがわかるんですよ。客の反応っていうかね、背中に感じる何か。あ、これは今が旬だなって撮っててわかるんですよ。 背中に感じる客のパワーみたいなのが。プリンセス・プリンセスの武道館とか、西武球場の時も凄かったしなぁ。

 森園を撮ったのも、ヤングギターになってからですね。 以前はフュージョン系の人も撮ってましたから。 ...動かなくて面白くないですよ。聴く分には良いですけど。

  現在は洋楽中心。正直に言って、やはりアーティストが"残る" から、作品も残るから嬉しいんだよね。例えばアイドルとかって5年経ったらコレ誰だっけ?ってなるじゃないですか。 そういった意味で日本の人は残るかなぁ?って。

 一番嬉しかったのは、ジミー・ペイジにサインをもらった時。 撮影用の機材にサインをもらうのが楽しみかな。

 洋楽のミュージシャンはスタジオに連れて行く時間無いから、ホテルに機材持って行く事が多いね。今、洋楽系のカメラマンは少ない。昔は1コンサートに7〜8人居たけど、今は1人か2人。

 洋楽系はオープニングの3曲目までしか撮影が許可されてないんだけど、その頃はまだ照明も暗いから撮影が難しいね。

 ミュージシャンはステージの上にいる時が一番カッコイイですね。

 僕は撮る時は常にアーティスティックですね。 ミュージシャンの日常なんて知らしたってしょうがないし、日常を撮ってもね。それは別の写真ですよ。ドキュメンタリーみたいだったら日常を撮るだろうし。例えば、写真集みたいなの作る追いかけ、って取材ありますよね。日常のヤツをそのまま、お茶飲んでるとか、煙草吸ってるとか、ちゃんとそれらしく撮りますけど。日常のを撮る時は自分の存在を なくして撮りますよ。

 フォト・セッションみたいなのは1対1で撮りますね。向こうの人は自分の顔もってますよ。あまりコミュニケーションする時間が ないから、そういった人は撮りやすいですね。田舎から出て来たばかりの、どうして良いか分からないような人にはああしろこうしろって言いますけど。でも、 ほとんどの人はちゃんと自分を持ってますよ。いう時は自然にしててとか、楽器持ってたらちょっと弾いて、とか、その くらいかな。

 写真の処理にコンピュータ使い出して1年位だけど、もうファイル4冊くらいでね。 バンドのイメージに合わせて写真を作って行くんだけど。こういう事やってる時間が結構楽しい、好きですねぇ。でも、雑誌の方は まだ普通の写真の方がいいみたいですよ。でも、コンピュータは1年やって来て、熱中するのは過ぎましたよ。何にでも飛びつくんですよ。で、その後は平行線。下がるんじゃなくて。雑学の大家って言われてますよ。 なんでそんな事知ってるの?って。でも、カメラは離さないかな。

 職業の選択や進め方についていえばねえ.....地方から来る人って何かやってやろうってあるんですよ。でも、東京生まれ東京育ちの人って、まぁいいか、となっちゃうんですよ。別に営業もしないし。だから、自然にこうなったのかなぁ。でも、普通の会社員にはなりたくなかったなぁって。組織の中に入る ような。理性と感性で分けちゃうと感性だよね。

 今、一番好きな事は...コンピュータかなぁ。ホッとする時は猫といる時。猫が好きだから、動物写真にも魅力を感じてるし、やってみたいんだけど、動物写真は本当に難しいからねぇ。長年自宅で猫を飼っていて、その猫の写真で、かつて"ねこまんま"という写真集4冊にも出した ことがあります。(シンコーミュージックから出版された。)

 川崎市から、長年猫を飼っていると言うことで表彰 されたこともあるしね。"招き猫" として15年間飼っていた猫が一昨年の暮れに死んでね、しばらくして家内が1匹拾ってきたんだけど、それが白血病でさあ、1万円もする注射を毎日しなければならなかったんだ。結局半年間は生き延びたんだけど、昨年夏に死んでしまった。 現在は友達から もらったのが2匹居るよ(“くるみ”ちゃんと“くり”ちゃん)。猫の話はいくらでも、とめどなく続くぞー(笑)。

 
現在の音楽シーン批評
 
 邦楽は"ルーズソックス"である!みんな一緒。みたいな.....偏っているって意味でね。流行と異なることをしないんだ。

 こんなルーズソックスになってしまった原因は、戦後の画一的な教育にあるんじゃないかな。

 音楽ファンについても、現在の日本の音楽ファンは"ミーハー的" っていうか、"聴きに来る"というよりも単に"観に来る" っていう感じだね。対バンありのコンサートでも、お目当ての、お気に入りのバンドしか喜ばないんだから。

 70年代は、情報が少ないせいもあって、観客はもっと"飢えていた"よね。レコードを聴き込んで、そのように演奏することを求めていたような気がするよ。

 今、何でもかんでも盛り上がっちゃうでしょ、出て来た瞬間から。昔は出て来てだんだん盛り上がって来て、だんだん立ち上がって来る感じでしたけど。まぁ、しょうがないでしょう、皆そういうもんだと思ってるから、コンサートっていうのは。みんな立たないといけないと思ってるから。

 
 今、若手でギター・ヒーローがいないよね。

 昔はCHARが居たりしたんだけどCHARは今でもフェイバリット・ギタリストだね。

 現在注目しているのは、トライヴ・オブ・ジプシーズのRoy Zというギタリスト。 彼はギターヒーローになるかも知れない。

 今はアメリカより、ドイツ・北欧系のギタリストがいい、感性が合うかな。

 ギタリストと言えば、今のギタリストでも森園の影響はあるね。先日珍しくビジュアル系バンドの仕事をしたんだけど、その中に他のバンドと違ってて"良いな!"というギタリストがいたんだ。 "モダン・グレイ" のギタリストだけど、森園のローディーをやっていた事もあったそうで、森園から大きな影響を受けているらしいよ 。 その他は"よっちゃん(野村 義男)"なんかも森園と仕事して、影響を受けているみたいだね。でも、野村のよっちゃんはモリというよりもだんぜんチャーですけどね。

 僕、初めて買った洋楽のレコードは、YESの『危機』なんですよ。 ラジオを聴いて良いなって。 あとはCSN(クロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ)。 アコースティックでこんなカッコイイ音楽が できるのかって。

 当時はレコードを貸したり借りたり。でも借りる方が多かったかな。一時フュージョンが流行ってたでしょ。森園の影響でフュージョン・ミュージックを聴いていたなあ。

 でも、あれは違ってたなーって。自分の趣向からすると。自分の趣向はハードロックかなぁって。基本的にはハードロック。仕事するようになってからますますハー ドロックの方になって。

 でもね、最近買うCDはジャンルでくくれないなあ。例えばこの間買ったのは、PPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)のベストとギルモア(デビッド・ギルモア)のソロ。'84年のソロがCDになったからね。それと、ブルース・ディッキンソンのソロ・アルバムとプレイング・マンテス。1993年のアルバムが好きでね。お店の人は不思議がってるだろうね。一体この人どういう嗜好なの?って。