時は1969年、場所は都立鷺宮高校である。

  鷺宮高校は、文化祭を控え、多数の音楽大好きグループが各教室に分かれ練習を続けていた。なお、当時はカレッジ・フォーク全盛の時代であり、ロック音楽はなおマイナーな存在だったため、積極的にロックを愛聴する人口は、”せいぜい1クラスに5〜6人といった程度”<談:吉浜>であった。

  いずれにしても、我々四人囃子ファンは、この鷺宮高校の文化祭に、永遠の祝福と感謝の念を示さねばならない!!

  その練習の場こそが、森園勝敏と岡井大二に歴史的な出会いの機会を提供し、いわば四人囃子生誕の地 、従って我々ファンにとっての「メッカ」となったからである。

 

  高校1年生であった森園と岡井は、未だまみえることなく、文化祭に向け別々の教室で練習していた。

  森園は、駅前のカメラ屋に生まれ、別の高校(武蔵丘高校)に通っていたが、鷺宮高校のロックバンドのメンバーとして、同校の文化祭に参加しようとしていた(後に、高校3年の時に鷺宮高校に転校した)。

  森園の属していたバンド、「ムーリク」は、”当時高校生ではめったに見られないような100Wのアンプを使い”<談:吉浜>、そのバンド名からも分かるように、クリームの「スプーンフル」や「クロスロード」の完コピをしていた(ムーリクはクリームの逆読み)。

  これらクリームの曲は、周知のようにギタリストにとって、弾きこなしの難しい曲に属するが、森園は何なくそれをこなしていた。“音はでかいし、うまいしで、気になったね“<談:吉浜>と、周囲の耳を惹きつけてやまなかった。

  他方、岡井は、ドラムスにのめり込み、文化祭には”日野テルみたいなトランペット奏者と何かしようとしていたんじゃなかったかな。いずれにしても、一人でドラムスを叩いていたよ<談:吉浜>。ただし”音楽をやっていること以外は、普通の高校生然とした生徒”<談:吉浜>であった。

 

  歴史的な出会いは、ムーリクのサウンドに惹き寄せられた岡井が、ムーリクの練習教室をのぞきに行ったことで幕を開けた。“ヒョロ長くって、面白いヤツでさ(笑).....、そいつがのぞきに来るんだ、よそから“<談:吉浜>。

  将来の四人囃子の「二本柱」、森園と岡井が打ち解け合うのにさほど時間はかからなかった。音楽好きの高校生同士、ジャム・セッションになだれ込むのは自然なことであった。森園がBassを担当し、岡井を含めてセッションすることになったのである。

  ”森園が、「じゃあ、俺がベース弾くよ」って言って、ベースを弾き始めたんだよね。”<談:吉浜>

  彼らはビートルズの「ア・ハードデイズ・ナイト」を演奏することにしたが、ジョンとポールの姿はあっという間にその場から消えさった。偉大なジャズ奏者さながらに、メロディは単なるテーマとなり、テーマの後は、”即興的なインプロビゼーションの嵐”<談:吉浜>が吹き荒れたからである。

  そして、森園、岡井ともに、このセッションを通して、お互いをいたく気に入ったようである。その年、”「地学室」と呼ばれる階段状教室”<談:吉浜>で行われた文化祭のステージでは、ムーリクの他に、このセッション・バンドの姿もあったからである。”あんまり練習してないにもかかわらず、演ったんだよね。これほとんどブッツケだったんじゃないかな”<談:吉浜>。

    

  かくして.....ここに!.....四人囃子の萌芽が生まれた。そう!四人囃子は、すべてこのジャム・セッションから始まったのである!!

 

  その後、森園と岡井は、雑誌「ライト・ミュージック」にメンバー募集を掲載し、中村真一を見い出すことになる。翌年、高校2年の時に”今度は体育館で行われた文化祭のステージ”<談:吉浜>では、この3人で、その名もズバリ、”ザ・サンニン”と名乗って演奏を行った。

  さらにその後、キーボードの坂下秀実が加入し、ここに結集した4人は、遂に四人囃子としてスタートを切ることとなったのである。

 

この誕生秘話は、吉浜弘之氏(四人囃子と親交の深いロック・ フォトグラファー)へのインタビューに基づいていますが
文責はすべて四人囃子オフィシャル・サイトに帰します








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