特別対談
The d.e.p. のルーツ、そして人脈を巡るクロニクル
佐久間正英×桑原茂一(クラブキング)

構成/君塚 太(ドゥ・ザ・モンキー)

 

1. ルーツを辿って〜ニューウェーヴの時代

    「僕はプラスチックスの海外ツアー(1980年〜)も一緒に行ったことがあるのに、実は佐久間くんとはちゃんと話すのは初めてに近い。僕の記憶だと最初に会ったのは、渋谷の屋根裏だったと思うんだけど。佐久間くんが入る前の、初期のプラスチックスのライヴで・・」
    「僕もプラスチックスのメンバーとは昔から友達だったから、観に行っていたんだと思います」
    「でも、その時は佐久間くんが何をしている人か知らなかった(笑)」
    「あの頃はみんな、自分が何をやっているか説明もしないし、何をしているか分からない人がたくさんいた(笑)。僕も“桑原茂一”という名前は知っていたけど、何をしている人かは分からなかったし」
    「プラステックスは最初、中西(俊夫、現TYCOON TOSH)、(佐藤)チカ、(立花)ハジメと他の3人のメンバーで始まったじゃない(177年結成)。僕は一番最初ハジメと知り合って、原宿の地下のクラブに観に行ったんです。もうラジオの「スネークマン・ショー」(注1)は始めていた頃だから、一応取材のつもりでラジカセも持って。でも、あんまり演奏がひどいから途中で“俺、もう帰る”と言った記憶がある(笑)」
    「僕も観に行ってたんじゃないかな。確かに演奏はひどかった(笑)。でも、見ているぶんには面白かったですよ。初代のメンバーの誰かが急にライヴ来られなくなって、代わりに弾いたこともあったし、プロデュースのような形で僕も関われないかなとずっと思っていました。そうこうしているうちに、メンバーが3人抜けることになって、僕も参加することに・・・その時のメンバーチェンジでは、ドラムスは大口ひろし(テンプターズ、PYGなど)だったんだけど、一度セッションしたらうまくいかなくて。それで僕が“だったらリズムボックスでいいじゃない”と言ったんです」
    「リズムボックスを使うというアイディアは佐久間くんから出たんだ」
    「じゃあ誰がリズムボックスの担当がいいのかと話し合ったら、みんな島(武実)ちゃんがいいって。それでメンバーになった。理由は島ちゃんが一番インベーダー・ゲームがうまいから(笑)」
    「(笑)そうか、あの当時みんなレオン(注2)でインベーダーゲームをやっていたから。鋤田さん(注3)なんかと一緒に。でも、佐久間くんが入ってからのプラスチックスは、どんな風に曲作りを
やっていたの?」
    「だいたいハジメちゃんがまず曲のもとになるものを作ってきて、それをぺ一夕ー(注4)のところに集まって聴くんです。僕がコードを考えたり、リズムをつけながらね。それで“ハジメちゃん、ここはGね”と言うと“Gって何?”。そんな時代ですよ(笑〕。もちろんその後みんな、どんどん“ミュージシャン”になっていくんだけど。
 レコーディングでは最初に僕が一人でスタジオに入ってベーシックなトラックを作る。後でみんなが好き勝手に発想を広げられるように。もう、あっと言う間にできちゃいました。1週間ぐらいでアルバムを完成させていましたから」
    「でも、佐久間くんみたいな人がいて、他のメンバーは良かったと思いますね。今のDJ連中のレコーディングと同じですよ。やっぱり佐久間くんみたいに、アイディアを音楽的にまとめられる人が絶対必要だから。やっぱりプラスチックスは現在のクラブシーンの原形を作ったんだな」
    「役割がはっきりしていたという意味では、音作りはスムーズにいってましたね」
    「プラスチックスが先駆的だったのは“音楽はミュージシャンが作るもの”という先入観を覆したことにもあるんですよね。次に続く人たちは本当に自由になったと思う。ファッションやアートといったあらゆる分野のものを、バンドというメディアに放り込んで、どうヴィジュアライズしていくかという方法論を生み出したわけだから」
    「僕としてはプラスチックスも四人囃子(注5)の延長線上だったんですけどね。言ってしまえばプログレというか、電子音楽と肉体の融合ですし。四人囃子でできなくなった実験をプラスチックスで……みたいな感じです」
    「第三者から見ていたら、佐久間くんにとってのプラスチックスというのは、ある種エアポケット的な時期だと思っていたんだけど、全部つながっていたんだね」
    「もちろん時代性もあったでしょう。あの当時はみんな、DEVO なんかでショックを受けて、ニューウェーヴの方向に行ったわけですから」
    「それとパンクがなかったら、その後のニューウェーヴも登場していなかったでしょう。僕のようなラジオでも『ローリング・ストーン』(注6)でも、欧米の音楽や文化をずっと紹介してきた人間も、パンクにはストレートに反応しました。当時は、青山にあったパイド・パイパー・ハウスで新しいレコードをいつも探していたり。でも、そういったことは別にして、プラスチックスの絶妙なバランスは、やっぱり佐久間正英という才能がなければ、絶対に成立しなかったでしょうね」


注1  桑原茂一、伊武雅刀、小林克也による伝説的な音楽ギャグ番組。77年からラジオ関東(現ラジオ日本)とTBSで足かけ6年間放送。
注2  原宿セントラルアパート1Fにあった喫茶店。
注3  鋤田正義。デヴィッド・ボウイやマーク・ボランのポートレートで知られる写真家。
注4  ぺ一夕ー佐藤。イラストレーター。
注5  75〜'79年に佐久間が在籍していたバンド。他にメンバーは森園勝敏、岡井大二など。代表作に「ゴールデン・ピクニックス」。
注6  アメリカのカウンター・カルチャー誌の日本版。'73年創刊・'76年廃刊。桑原は創刊から廃刊まで、編集に参加。
注7  '81年のニューヨーク公演を最後にプラスチックスは解散。その後、中西、チカを中心に結成されたユニット。ファースト・アルバムには細野晴臣、高橋幸宏も参加。以降、屋敷豪太も加わり、セカンド「Deep Cut」をリリース。
注8  ピテカントロプス・エレクトス。原宿にあった桑原茂一プロデュースのクラブ。MELON 他、多くのアーティストを輩出したことでも知られる。

2.  長い時間と新たな衝撃〜各メンバーとの邂逅

■土屋昌巳
  「The d.e.p のメンバーの中で一番長い付き合い。四人囃子の前から知っていましたから。一風堂よりはるか昔、土屋がりりィのバックをやっていたバイバイ・セッション・バンドにいた頃ですね。このバンドには坂本龍一や斉藤ノブ、吉田健もいたわけだから、すごいメンバーでした」
  「僕はMELON(注7)のファースト・アルバム「Do You Like Japan ? 』のレコーディングでニューヨークに来てもらった時が最初です。土屋くんには、根っからのミュージシャンとしてのカッコ良さがありましたね。有無を言わせないプロフェッショナルな説得力というか。でもミュージシャンの人たちって、スタジオでは冗談ばかり言っている人が多いんですよね。土屋くんも、その時ゆっくり話したけれど、やっぱりそうだった。当時からメイクはきちんとしていましたけど」
  「それは今も変わっていません(笑)」
  「出かける時は忘れずに、だからね(笑)」

●屋敷豪太
  「ピテカン(注8)には最初、Mute Beatの小玉(こだま和文)くんが連れてきたのかな。MELONに入る前からよく来ていました。彼はもともと会社に勤めていて、いつもスーツ姿にスティックだけ持って現われるんです。それから徐々にプレイヤーとしての実力を認められていって、僕らの間でも重要な役割を担うようになったんだと思います」
  「僕は MELON のライヴとかでは彼のことは知っていたんだけど、実際に一緒に演奏したのは今回のレコーディングが初めてなんです。“きっとピテカンではスレ違っていたんだろうね”なんてお互いに言いながら。昔から彼の演奏は優れていましたね。ドラマーとしてだけじゃなく、幅広い意味で。ずっと一緒に演りたいと思っていました」

■ミック・カーン
  「プラスチックスがロンドンでライヴをやった時に、ジャパンのメンバーが遊びに来たのが、最初の出会いですね。その後は Nina に参加してもらうまで、直接的な接点はなかったんです。Nina にして
も d.e.p にしても、僕は軽いポップス、もっと言えばちょっとおバカな音楽をやりたいと思っていたんですけど、ミックはどちらかと言えば難解な曲ばかり演奏してきた人。だからあえて彼を選んだんです。8ビートをやったことがないペーシストに、8ビートを弾かせてみたかった(笑)。彼も最初は戸惑っていたみたいですけど、実際に一緒に演奏してみたら、やはり確実なプレイを聴かせてくれましたね」

●ビビアン・スー
  「僕はビビアンの歌をブラック・ビスケッツなどでしか知らなかったんですが、ある人から紹介されて彼女が台湾でリリースしたCDを聴いてみたんです。それですごくショックを受けた。シンガーとして本当に素晴らしいと思いました。それで機会があったら一緒にやらせてくださいとお願いしたんです。だからまず、ビビアンとバンドをやることが決まっていて、そのために集まってもらったのが今回のメンバーなんですね。ポップでありつつ、ニューウェーヴの残党(笑)テイストもあって、しかもちゃんと新しい音楽になっているものを作りだしたいということで」

 

3.  関係性が生む音楽〜The d.e.p から何かが始まる

  「このメンパーが集まってレコーディングをしたというニュースを聞いた時、僕が最初に思ったのは“優雅だなあ”ということ。完成された技術が根底にありつつ、好きなことしかやらないという姿勢を続けてきた人たちのカッコ良さがあるよね。日本の音楽のマーケットは、ほとんど若い子たちに向けてしか開かれてないように思えるけど、佐久間くんを始めとするメンバーには大人の遊び心もあるじゃないですか」
  「今回はまず僕がデモを作って、メンバーに送ることからスタートしたんですけど、それはもうそれぞれが勝手に解釈してくださいという気持ちだったのね。このメンバーで演奏すれば、どんな音が飛び出しても楽しめると思っていたから。
  ロンドンでやったレコーディングも、ほとんど一発録りだったんです。みんなでセッションしながら、同録で録って・・・ホント、音を出した瞬間に、もう10年以上このメンバーでバンドをやっているような気分がした。このメンバーだったら2、3回合わせれば、普通のレベルでOKテイクは録れるんですけど、全員がもう少しやればさらに良くなることが分かっているんです。誰も具体的に“ここをこう変えて”なんて言わない。“もうちょっとだね”と一言いえば、どの地点の演奏を目指しているか理解できる。久し振りでした、あんなにクリエイティヴな演奏は。
  昔からバンドをやってきて、一つ重要なことに気が付いたのは、人と人との関係こそが音楽なんだということなんです。それ以上でも、それ以下でもない。どんなメンバーと演奏しているのかという関係だけが大切で、その関係に整合性を保てれば、音楽は成立させることができるんですよ」
  「どの分野でも同じなんだけど、結局は人と人とというか、集まったメンバーが今までどう生きてきて、何を作れるかが重要なんだよね。その関係性を音楽という形で表現できるというのは、理想的なことでしょう。こういう音楽がもっとたくさん生まれてくれば、閉塞的な日本のマーケットも変わっていくんじゃないかな。d.e.p. から何かが始まるのかも知れないね」